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第34回 国民文化祭・にいがた2019、第19回 全国障害者芸術・文化祭にいがた大会

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鈴木牧之の伝えた「雪国」を訪ねて ―歴史小説作家 秋山香乃 秋山郷・塩沢探訪記―

■「はじめに」
 塩沢に生まれた鈴木牧之は、十九歳の時、商いのため江戸に行きました。そのとき、自分たちにとって「当たり前」だった雪国の生活が、江戸っ子たちにとっては、
「いくら何でも嘘だろう」
「いやいや、そいつぁ、大袈裟すぎるってもんじゃないのかい」
 とまったく信じてもらえないほど仰天する生活であることを知ります。
 だから牧之は、なんとかして自分たちの「当たり前」の「雪に晒された暮らし」を、江戸の人たちに、できれば日本中の人たちに知ってもらいたいと思いました。自ら雪国について執筆し、出版できれば……と考えたのです。
そうして生まれたのが、『北越雪譜』です。
出版への道のりは簡単ではありませんでした。資金で行き詰まったり、出版を請け負ってくれた人が亡くなったり、自身が病を得てそれどころではなくなったり、原稿を預かった人が話を前に進めてくれずに何年もいたずらに過ぎたり、タイトルで揉めたり……。
やっと本が出たのは、おおよそ半世紀のちの、牧之六十八歳のときでした。
普通の人なら諦めていたでしょう。けれど牧之は決して諦めませんでした。牧之には、「伝えたい」という迸るような強い思いがあったからです。
私はそこまでして伝えたかった牧之の思いの源を、自分の目で見てみたくなりました。豪雪と寒風の中で人々が育んできたものを知りたくなりました。雪に身を晒して生きるというのはどういうことなのか、牧之を偲びながらじっくりと考えてみたくなりました。
新潟には、雪国には、牧之をあれほど突き動かした何があるというのでしょう。
平成最後の冬、私は牧之の生まれた塩沢や、彼が桃源郷のようだと称えた秘境秋山郷を、実際に訪ねてみました。
雪の少ない九州で育った私にとって、銀の光がきらめき跳ねる雪の結晶も、灰色に染まる雄大な雪山を背後に控えた息を呑む景色も、全てが初めて目にした光景でした。マイナス七度の世界も、屋根に上っての「雪掘り」も、ほんのり暖かなかまくらも、なにもかもが目を瞠る体験でした。
そして、なによりそこで出会った人々が紡いでくれたお話が、こうしてだれかに伝えずにおけないものだったのです。

■「秘境秋山郷(結東)を訪ねて」
 私が訪ねたとき結東は、いつもの年に比べて雪はそう多くないというお話でした。滞在している間に温度計が指した一番低い数字は、マイナス七度でした。エスキモーのように着込んでいたせいで、あまり寒さは感じませんでした。
ただ背丈より積み上がった雪の壁に圧倒され、背後に控える切り立つ山とその上に抜ける澄んだ空の美しさに、一瞬で魅了され、心を奪われました。
 ここでお世話になった「かたくりの宿」は、かつてこの地の子どもたちが学んで語り合った小学校の校舎を、「ふるさと資源活用事業」で改築したものです。学び舎のおもかげが、随所に残っていました。今ではもう大人になっている、あどけない目をした子どもたちの元気な写真も飾ってありました。
名前にかたくりが付くのは、新潟の橋五十選の一つ、吊り橋「見倉橋」を渡った先の見倉集落に、かたくりの群生地があるからなのだそうです。
驚いたことに、出迎えてくれた三人のスタッフのみなさん全員が、結東の生まれではありませんでした。お若い方々ですが、全員がよその地から秋山郷の自然に吸い寄せられるようにやってきた人たちだったのです。
 ここへ来た理由は三人三様。兵庫県から来た渡邊さんは、大自然に惹かれたため。横浜から来た吉原さんは、昔からある暮らしの知恵に興味があるが、それらを学べる環境がここにはあったから。大分から来た佐々木さんは、かつて「大地の芸術祭」のときに訪れ、緑の濃さや建物の風情が故郷九州と違い、新鮮に心に響いたからだということです。
 では、実際に暮らしてみてどうだったでしょうか。訊いてみました。
渡邊さんは、とにかく雪の美しさに感動したのだとか。冬の結東は曇りの日が多いけれど、たまに晴れたその日は、日の光を弾いた雪の結晶が、一面白銀と化した大地の上でダイヤモンドのように煌き、それはもう息を呑む光景なのだそうです。
一方で、雪掘りや雪かきはまったなしの作業。仕事に行く前と帰ってきてから、やらねばならない冬の日課です。それは、どれほど疲れていても、体調が悪くても行わなければなりません。やらなければ、にっちもさっちもいかなくなるのです。すべてが「雪にあわせて」動く生活。そこでは自分の都合は二の次です。
ちなみにこの地方で雪下ろしのことを雪掘りと呼ぶのは、雪が屋根より高く積もるためです。まるで掘っているかのようだから、こう呼ぶようになったのです。この言葉一つとっても、雪国の大変さが想像できます。
 吉原さんは、その雪掘りを、集落の八十歳を過ぎたおじいさんが、「当たり前のように」やっていることに瞠目したのだとか。
「今まで八十歳のおじいちゃん、おばあちゃんが屋根に上る姿は見たことが無かったので、すごいと思いました」
 本当にそうですね。私も結東に行くまで見たことがありませんでした。けれど、吉原さんが感動した「ここでは当たり前の光景」を私も目の当たりにして、結東の地に力強い生きるパワーを感じ、心が震えました。
 佐々木さんは言います。
「暖かい地なら、貯えがなくともなんとか生活が成り立つけれど、雪に閉ざされる集落では、生きていくことへの切迫感が、そうでない地域と比べてまるで違います」
この、生きる実感を強く感じる感覚を、『「生きる」が濃い』という素敵な言葉で佐々木さんは表現してくれました。
 私は三人から何度か出た、この「生きる」という言葉に惹かれました。他の地域に住む若い人たちからは、それほど聞く機会のない言葉です。
もう少し詳しく「生きる」ことについて伺ってみたくなりました。

■「移住した渡邊泰成・真紀夫妻の語る「雪国」に「生きる」ということ」
 わたしは、かたくりの宿のスタッフの渡邊さんのご自宅に、お伺いさせていただきました。古民家をリノベーションしたほっこりと落ち着きのある御宅です。
訪ねると、渡邊泰成さん、真紀さんご夫妻が優しく出迎え、「生きる」ということがどういうことなのか、熱心に語ってくれました。お二人の紡いだ言葉の数々は、宝物として今も私の胸の中に刻まれるほど、新鮮で素晴らしかったです。
 お二人は、都会での暮らしは、当たり前のことが当たり前に感じられない暮らしだと言います。水や食べ物がどこからくるのか、スーパーに行けばなんでも揃う街中ではわかりにくいからです。
 水は雨が降って地に染み、山から湧いて私たちの飲み水となります。米や野菜は田畑を耕し、収穫して食べます。肉も、ここでは動物を獲り、命をいただき、その肉を「食べさせてもらう」のです。
 当たり前に人間が生きるためにやっていることが、目に見えてわかる暮らしがここにはあります。食べ物や水など、命の源の一番最初の部分を見つめることができます。このため、都会に暮らしていた時より、自分自身がその循環の中で生きているということを、実感できる生活があるのです。
 真紀さんは、ことに雪解け時に雪を割ってぱっと顔を出す山菜に、命のきらめきを感じていました。その姿はとても美しく、山菜を食べるというより、生命の力をいただくという感覚が強いのだそうです。
「生きているものを力ごといただいて、自分も生きるのです」
 それは私などが普段の食事のときに感じることのほとんどない感覚でした。だけど、本当に真紀さんの言う通りです。
 驚いたことに結東で採れる山菜は、三十種類以上もあるそうです。山菜にそれほど種類があることすら、お恥ずかしながら私は知りませんでした。そして、場所や時期、その年その年で同じ山菜でも姿を変えるので、同じ要領での灰汁抜きはできないのだとか。そのつど考えて、適切な処理をしていかなければならない面白さに魅了されていると、真紀さんは言います。
「生きていることを強く実感できる暮らしは、ぼんやり暮らしていけないからこそ、ぎゅっと凝縮されています。自然と仲良くしつつ、自然から力をいただき、自分たちが生かされている存在だと感じる毎日です」
 泰成さんは、狩猟をしているのだそうです。ご自身ではまだ新米だと言っていました。なぜ、狩猟をやろうとしたのか尋ねると、マタギ文化に興味が湧いたからなのだそうです。ただ、動物を撃って獲るのではなく、そこにはマタギの哲学や精神性というものがあります。そういうマタギ独特の文化を勉強していきたいと強く語ってくれました。
山には大きな神様がいて、マタギは大なり小なり生きていく上で神様のことを考え、神事を大切にしている。山の神様との対話があって、人間も生かされ、猟もさせていただいているのだと、身に染みて実感するのだそうです。
 雪国の人たちは、人間が弱いことをよくわかっています。自然には太刀打ちできません。協力していかなければならないから、集落の人たちは助け合って生きていきます。その歴史に育まれた、雪国ならではの人々の絆がそこにはあるのだと、ご夫妻は温かい笑顔で教えてくれました。

■「江戸時代の本が現代人を動かした!」
 結東には、牧之が江戸時代に書いた本を読んで感動し、何度もこの地を訪ねてくるうちに、とうとう移り住んだ人がいるのだそうです。
私はこの話を聞いた時、江戸時代の文章が時を超え、現在の人の心を揺さぶり、生き方そのものを左右したのかと、息を呑む思いでした。私も物書きの一人なので、それがどれほど作家にとって幸せなことなのか、よくわかります。ああ、牧之は仕合せな人だと、しみじみ思いました。
 渡邊さんは、『北越雪譜』を、「勇気を与えるような文章」と感想を述べていましたが、その移り住んだ方にとって牧之の本は、まさに人生の羅針盤となったのでしょう。

●昔からある暮らし
 結東にずっと住んでおられる八十一歳の瀧澤さんに大根つぐらを見せていただきました。
大根つぐらは毎年十一月くらいに藁を編んで庭に作った天然の冷蔵庫です。形は、円柱状で、上にとんがり帽子のような蓋がついています。
中には大根を中心に、時に人参、牛蒡なども入れることがあるそうです。藁は保温がきくので中の温度は外の温度変化の影響を受けにくく、食料保存にはもってこいの存在です。土がついたまま入れておくと、春まで新鮮で瑞々しいまま保存できるため、冬の間、必要な時に取り出して食べることができます。
 瀧澤さんは、鼠が入ってこないように、つぐらの下にちくちくした杉の葉を敷いていました。大根つぐらは春になれば崩して畑の肥料にします。この藁の栄養で、また新しい食物を作るのです。
 大根つぐらの他にも、生活の知恵は随所で使われていました。たとえば、畑で採れた白菜やキャベツを雪の中に埋めておきます。すると、いつでも新鮮な野菜が食べられます。雪の中に埋まった野菜は甘くなるのだと、以前どこかで聞いたことがあります。電気を消費する冷蔵庫に保管するより、ずっとおいしい野菜が食べられるというわけです。
 つぐらで保管した大根は、必要に応じて軒下に干し、しみ大根を作ります。大根は縦に半分に割り、茹でたものを干すのだそうです。寒い時期に外にぶら下げて凍らせ、お天気のいい日は、水分を抜きます。繰り返すうちに、大根はヘチマのように繊維だけが残り、細くなっていきます。それを煮物に入れると、煮汁をたっぷりと吸って、よく味の沁みたおいしい大根ができるのだそうです。
 実際にしみ大根の煮物を食べさせてくださるとのことで、瀧澤さんのご自宅にお邪魔させていただきました。その際、豪雪と寒風の中で育まれち、吹雪く中に身を晒して生きてきた瀧澤さんの生活を、ほんの少し見せていただきました。
 部屋の中はじんわり暖かく、雪が周囲の音を吸ってそこには沈黙が溜まっていました。ただ、薪の上で火が爆ぜる音だけが、硬質な音をパキパキとたてています。
 落ち着いた飴色の扉に、欅の梁が黒茶に艶やめいた鈍い光りを放つその家は、建築されてから百四十年ほども経っていました。百四十年の雪の重みに耐えた家なのだと思うと、じーんと感動が湧いてきます。
天井の高い部屋は薄暗かったのですが、その暗さが不思議と心地よく、心の裡をつい語ってしまいたくなるようでした。
 出していただいたたくさんのお惣菜の中に、春に採れるゼンマイを見つけました。今は冬なのに? 
訊ねると、春に採れたゼンマイなどの山菜は、乾燥させて保存し、一年のいつでも食べたいときに戻して食べるのだそうです。
「春の恵みが冬にいただけるのですか」
 私は目を見開いて声を上げました。瀧澤さんは「当たり前」というように頷き、秋に採る茸は塩漬けにして保存し、やはり食べたいときにいつでも塩抜きして食べるのだと教えてくれました。それら保存食のお惣菜を何種類も食べさせていただきましたが、どれも瀧澤さんの言葉通りによく味が染みておいしく、水気を吸って保存食という感じはしませんでした。
 瀧澤さんが一番好きなのは、カリカリ大根に数の子を入れたもので、お正月には必ず作るそうで、「お酒にもあうし、あったかいご飯にのっけて食べると最高だ」と、嬉しそうに笑ったお顔が、とても素敵でした。
 お部屋の中には熊の毛皮の敷物が! 
若い時に猟をやっていたとかで、その熊は仲間と一緒にご自身で仕留めたものでした。熊の毛は見た目はごわごわとして硬そうですが、実際に触れると艶っとして手触りが良いのです。瀧澤さん曰く、夏は風呂上りにその上にごろんと横になると心地よいのだとか。
 よく時代小説に熊の胆嚢が薬として出てくるので、そのことについて訊いてみました。『北越雪譜』にも、この熊胆について述べている箇所があります。「熊胆は越後を上品とす」「雪中の熊は右のごとし他食を求めざるゆえ、その胆の良功、夏の胆に比ぶれば百倍也」と。
瀧澤さんもこの牧之の文章とよく似たお話をしてくださいました。熊の胆嚢は、春に冬眠から覚めた熊から取るのがよく、冬の間は何も食べていないから胆嚢が濃厚で、上手に使うと確かに医者いらずの貴重な薬となるのだと。
よもや牧之自身は熊を狩ったことなどなかったでしょうから、当時の猟師たちに取材して聞いた話を綴ったのでしょう。二百年以上も前の猟師と、現在のマタギだった瀧澤さんが同じことを言っているのだと思うと、感慨深いです。
今度、自分の小説の中に熊胆を出してみようと思います。
瀧澤さんと熊は狩るものと狩られるものの関係ですが、
「熊はどこも無駄にしない。獲ったら全部丁寧に使う」
という言葉の中には、熊に厳かな思いも抱いているように感じられました。
また、滝沢さんは熊の命をいただく山のことを次のように語りました。
「山の木は暖になり、山の土は飲水を作る。山の恵みの中で生きている」
 山は秋山郷に暮らす人々にとって、神聖な場所なのです。
 この後、瀧澤さんの家を出て、出会った人たちのお話を思い出しながら、ゆっくりと結東を散策しました。雪国の暮らしは大変に違いありませんが、この地は山と雪の恵みに溢れ、人々は力強く生き、雪国ならではの絆で結ばれていました。牧之の愛した結東を、気が付けば私もとても好きになっていました。

●雪掘り体験記
 瀧澤さんにお願いし、雪掘りを体験させていただきました。私は歴史時代小説家なので、ここはやはり……ということで、簑笠と藁沓(深沓)を履いて、さらに雪に足が沈まぬようかじきを付け、屋根の上に上げていただきました。(牧之はこの「かじき」について、「かんじきは古訓なり。里俗かじきといふ」と説明しています)
瀧澤さん自身、若いころは簑傘を着て雪掘りをしていたそうです。私が借りたのは、なんと三十年前の簑笠なのだそうです。寒いというよりは、風が肌をぴりぴりと刺す中、簑笠を羽織ると、ほんわりとからだが温くなりました。
 ブナの木で作った木鋤を使い、豆腐を切るように雪を切り、四角い雪の塊を木鋤の平たい部分にのせて、振り返りざま屋根の下に放ります。
 お手本を見せてくれた瀧澤さんがやると簡単そうに見えますが、なんのなんの。腰の捻り方ひとつ飲み込めず、「やっ、やっ」と声を上げつつ掘った雪を放るのですが、無情にも屋根の上にぼたっと落ちることも多々あり、どうやら私に雪掘りの才能はないようです。日頃の運動不足が祟り、腰も痛くて、息も上がる始末。
雪かきも雪下ろしもしたことのない、九州生まれ九州育ちです。本当に有難く貴重な体験でした。
 
■「牧之が名付けた日本酒「鶴齢」」
 牧之の生まれ故郷塩沢には、牧之所縁の青木酒造さんがあります。青木酒造さんは、享保二(一七一七)年に「平野屋」の屋号で創業され、七代目の主は牧之の次男弥八でした。その関係上、牧之は平野屋の主要銘柄「鶴齢」の名付け親となったと伝えられています。
 牧之の生きた時代と今とでは酒の造り方も違いますから、もちろん当時の鶴齢と今の鶴齢は、味がまったく違います。牧之の飲んだ味は残念ながら味わうことは叶いませんが、今の鶴齢を飲ませていただきました。
 すっきりとして飲みやすく、雑味の無い清らかな味わいの中に確かなうま味のある、米の味が生きたお酒でした。
 おいしさの秘密を訊ねると、「雪」にあるということです。日本でも有数の豪雪地帯であればこその「味」が、どうやら生み出されているようです。
 水は、雪が春になって溶け、地下に浸透した巻機山の伏流水を使用し、ミネラルを含んだ軟水だからこそ出せる味を大切に造っています。また、寒さは雑菌を減らし、降雪は塵を除きます。クリーンな空気と環境は端麗な酒を生み出すのです。
 もちろん水だけが活躍しているわけではありません。酒のうま味を決める酒米は、南魚沼産を使用し、米がストレスを感じぬよう水分量と温度管理には細心の注意を払い、愛情を込めて繊細に扱っています。麹を作るときに手を入れる回数を多くし、規模を大きくし過ぎず、目の届く範囲で手間暇かけることでよりすっきり感を保っているのです。
 時代にあったおいしいお酒は、昔ながらの大切な伝統の部分は継承しつつ、飲み手や好まれるお酒の変化に対応することで造られます。よりよい方向への意識改革と伝統のバランスを絶妙に保ちながら、「手を抜かずに一生懸命に造る」この一事に尽きるのだとか。
 青木酒造さんは人間の五感を大事にしているそうです。労力をかけたからといって良い酒ができるわけではなく、機械の良さもあります。このため、機械をしっかり導入しながら、一方で手の感覚を必要とする作業を大事にしているのです。
 どうやったら良い酒に結びつくのか、反省しながら毎年やっても答えが出ない、それが酒造りの奥深さで、面白さでもあります。
「技術や味は時代にあわせて変化させていくが、酒造りの心は昔と変わらない」
 そう語る青木酒造さんを私は素晴らしいと感じました。これは何もお酒造りにだけ通じることではない、どんなことにもこの精神で臨むことが、「良い仕事」を生み出していくのではないでしょうか。自身の執筆業に照らし合わせながら、ずいぶんと反省させられもしました。
 さらに青木酒造さんは語ります。
「青木酒造は若い人が多くなり、盛り上がってきました。酒造りにはチームワークが大切です。仲が良いことが一番で、これから飲まれる、好まれるお酒を、みなで見出してかもしていきたい、みなが同じ方向を向いて、一生懸命考える――そういう雰囲気作りができたら、ますますいいお酒になります。丁寧な仕事をする、真摯に向き合う、そして純粋な気持ちを持つことを忘れずに、これからも酒を造っていきます」
 この言葉も、酒造りだけでなく、すべての仕事をする上で、参考になる言葉ではないでしょうか。少なくとも小説作りには、そっくりそのまま置き換えがききます。毎年買うスケジュール帳に写し取って、仕事に躓いたときには襟を正して読み返すようにしたいほどです。「仕事」と向き合ううえで、大切なことを教えていただきました。
 ところで青木酒造さんに勤め始めてそれほどまだ経っていない若いかたに、「酒造会社はたくさんあるのに、どうして青木酒造さんを選んだのですか」と訊ねてみたところ、実に痛快な答えが瞬時に返ってきました。
「ここが一番おいしかったからです」
 なにより説得力のある理由です。
 最後に「雪」について語っていただきました。青木酒造さんにとって「雪」とはいったいどういうものなのでしょう。
それは――。
「雪は大変なものだが、人が利用することで恵まれた環境へと変わります。リスクからメリットへと、そこに暮らす人々が変えていくものです」
 ありがとうございます。心洗われるような取材となりました。

■「大奥の筆頭御年寄の日記にも出てくる越後上布 大名間の贈り物にも使われた名品の謎に迫る」
 標高二千メートル級の山々に囲まれた塩沢は、日本でももっとも雪深いところの一つとして、『北越雪譜』を生み出しました。が、もう一つ、日本でももっとも高価な織物の一つ、重要無形文化財でありユネスコ無形文化遺産でもある「越後上布」も生んだのです。
 塩沢で織物が盛んになったのは、「雪」があったからです。冬を迎えると四、五カ月ほどは雪に閉ざされてしまいます。昔はこの一帯は農家が多かったのですが、その間の仕事として、織物はこの地に根付いていきました。『北越雪譜』の中にも、「縮は右村里の婦女らが雪中に籠り居る間の手業」として紹介され、「十月より糸をうみはじめて次の年の二月なかばに晒しをはる」と続けています。
 盛んになった理由のもう一つは、そこに織物の材料となる草があったからです。イラクサ目イラクサ科の多年生植物「カラムシ」です。茎の部分から、日本の気候にあった良い繊維が取れます。
 重要無形文化財越後上布・小千谷縮布技術保存協会会長(取材当時)小河さん曰く「雑草があり、手間があり、雪があり、麻織物に繋がった」と。
 カラムシから作られた糸は乾燥に弱く、濡らすと強くなる特徴を持ちます。このため、雪の降る湿気の多い時期に織るのに適しているそうです。昔は積雪によって農業のできなくなる季節の内職として発展しました。
今は、一年中織りますが、乾燥する時期は加湿器を使って湿度を保つようにしています。ちょうど良い湿度は七十パーセントということです。牧之も「雪中に籠り居る天然の湿り気を得ざれば為し難し」と綴っています。
 織り方はいざり織りという方法で、手織り水平織機の一種で、織り手は床に足を投げ出す形で座ります。腰に負担がかかる座り方ですが、高機に比べて縦糸が切れにくく、より美しい布が織れます。縦糸を上下に分けてその間に杼に繋いだ横糸を通し、筬で手前にトントンと打ち付けることで、縦糸と横糸を合わせて布にし立てていきます。越後上布の縦糸は千二百本ほど使うそうです。
 越後上布は、一日に調子がよくて十五センチ、調子が悪ければわずか三センチほどしか進まず、十二メートル織るのに百日ほどかかるそうです。これがベテランになると六十日ほどで織り上げてしまうというから、すごいものです。
 調子の良しあしは、空気の状態に左右され、やはり湿度でずいぶんと変わります。少しでも乾燥すると糸が切れ、織るというより切れた糸を繋ぐ作業を繰り返す日もあるとのこと。途方もなく根気のいる作業だということがわかります。
また、織り手の精神状態が驚くほど糸に伝わるらしく、感情を平にして平常心を保たねば、力の加減が一定でなくなり、機の表面に波ができ、やはり糸が切れてしまいます。心の乱れが力の乱れとなり、織物の乱れに繋がるのです。このため、五年間織って一人前と言われる厳しい世界です。
 ベテランの人は技術的な面だけでなく、常に平静な心持ちで機を織れる人なのだということがわかりました。人間ですから生きていれば心が乱れないなどということはありません。平常心を保ち続けるということは、すごいことなのです。
 非常に忍耐を要する作業ですが、豪雪地帯の人は雪に閉ざされた生活の中で、他の地にはない忍耐を培っています。同じ作業を何か月もこつこつと続ける根気を持ち合わせているのです。
しかし近年、やはり織物に従事する人が減ってきたため、今はこの素晴らしい伝承事業を継承する取り組みがなされていました。毎年、四人に技を継承しているのだそうです。
 織り上がった布は、春の雪解けの季節に「雪晒し」をします。夏は田だった場所の真っ白い雪の上に、幾つもの反物を広げた情景は、まさに圧巻です。だいたい一週間ほど晒します。
雪の表面が溶けて蒸発するときに出るオゾンに、布を漂泊する効果があるため、雪晒しの作業を経ることで、なんともいえぬ上質な越後上布が仕上がるのです。まさに雪なくしては存在しえない布が越後上布です。
牧之も『北越雪譜』の中で、「雪中に糸となし、雪中に織り、雪水にそそぎ、雪上に曬す。雪ありて縮あり、されば越後縮は雪と人と気力相半ばして名産の名あり。魚沼郡の雪は縮の親といふべし」と語っています。
牧之の生きた時代、冬織物は塩沢の経済の主力として日本中に評判を得ていました。技術保存協会の小河会長(取材当時)は、「いいものを作るその積み重ねで、さらにいいものができていく」のだと言います。そして牧之と同じように、「麻織物は雪で生まれた。雪と自分たちは父子のようなものだ」と語ったのには深く感動しました。昔の人も今の人も、同じことを想いながら、雪と向き合い共に生きているのだとわかったからです。
小河会長(取材当時)はさらに、「織物ができるまでに物語があります。織物の中の物語ごと、受け継がれてきた歴史も含め、反物を買っていただくときには、丸ごと買っていただきたい」と述べていたのが印象的でした。

●文化継承の事業
牧之に「縮は越後の名産にしてあまねく世の知る処なれど、他国の人は越後一国の産物とおもふめれど、さにあらず。我が住む魚沼郡一郡にかぎれる反物なり」と誇らしげに言わしめた越後上布。その、未来に繋げていかねばならない越後上布の機織りに魅せられて、技を学びにきている方にお話を伺いました。
着物が好きで、お母様が機織りをしていた関係上、布を織ることを身近に感じていたAさんは、文化を残していきたいという気持ちから、募集に応じて学びにきました。
実際にやってみると、「糸というのはこんなに繊細なものなのか」と驚いたそうです。
 この事業では糸を作るところから講習を受けます。そうすることで、「ただ織るのではなく、布を織りあげるまでにたくさんの苦労があることを学び、この技術と文化を守っていきたい思いがいっそう強まりました」とのこと。
 それだけに、「この越後上布の織物は、昔からの技術で長い歴史があるものなので、ぜひとも学んだあともずっと続けて織り続け、伝えていってほしい」と、これから始めたい人には願っているそうです。
 ただの興味本位などではなく、文化の担い手として長く続けていく覚悟のある人は、重要無形文化財越後上布技術保存協会に、学びに来てはいかがでしょうか。

■牧之通り
 三国街道塩沢宿に牧之通りがあります。ここ塩沢が『北越雪譜』を著した鈴木牧之の生まれた地であることにちなみ、牧之の名を冠した通りが生まれました。JR塩沢駅から徒歩五分の位置です。
 雪国の歴史と文化と伝統を後世に「形として」残せる町をコンセプトに、牧之の生きた江戸時代にタイムスリップができるよう、昔の宿場町の跡地に再現したのだとか。このため、各建物を二メートルもセットバックして、雪国の象徴の一つ雁木を再現してあるのが、大きな見どころです。通りにあるすべての建物が、外観や色彩に統一性があり、お堅い印象のある銀行でさえ、ここでは銀行ではなく「両替」の甲板が出ています。外観だけでなく、中に入ると床も木材が使われ、天井を高くして光を取り入れ、古民家の趣です。
 私が訪れたときは、冬の晴れた空がどこまでも広がり、その下のレトロな街並みは、あくまで穏やかで、優しい雰囲気に包まれていました。どこかほっと気持ちも落ち着きます。
 実際に歩いてみると居心地の良さに、これまでに数々の街並みに関する賞を受賞しているのも納得です。
 第二十七回まちづくり月間「まちづくり功労者」国土交通大臣表彰、第二十六回手づくり郷土賞「一般部門」受賞、第二十三回全国街路事業コンクール優秀賞受賞、都市景観大賞「都市空間部門」大賞受賞、アジア都市景観賞受賞……。
 改めて列挙すると感嘆の声が上がります。
 それにしても、雰囲気のある素晴らしい通りですが、どういう切っ掛けで作ったのでしょうか。また、これだけのものを造り上げるには、大変な苦労があったのではないでしょうか。ここでは、牧之通り組合の中嶋組合長と奥様の真知子さんに色々とお話を伺いました。
 中嶋組合長は、具体的な御苦労については何も語られず、「町づくりは腕力勝負だよ」と言って微笑されました。最初に強い思いがあって、建前ではなく本音、本質の部分で推し進めていかなければ何も動かないのだということです。また、そこにはロマンがなければならないとも。
「ロマンがないと人間は動かない。ロマンは人間が動く根源であり、夢があることが大事」
 またそのためにはストーリーがなければならないとのこと。これは感覚としてなんとなくわかります。これからの世はストーリーという付加価値が人をわくわくさせて、動かしていくのだろうと、自分も思っているからです。越後上布の小河会長(取材当時)も「物語(ストーリー)」という単語を口にされたように、たとえば、一つ一つの商品の後ろにストーリが見えた時、人はときめいてそれに手を伸ばすことが多々あります。町づくりにもそれ以外のことにも、このストーリーを見出していくことが、大きなうねりに繋がっていくような気がします。
組合長のキャッチフレーズは「澄みきった青い空、たおやかに広がる美しい街並み」なのだそうで、いただいたお名刺にその文句が刻まれていたのが印象的でした。
 牧之通りは、歩道の設置や整備、電線の地中化と共に作られたようですが、観光地として賑わうように整備したものではないと伺い驚きました。そういえば、普通の観光地にあるようなお土産屋さんや食事処がほぼ見当たりません。
「もちろんせっかく来てくれたときには、おもてなしをして『来てよかった』と思ってもらいたいし、喜んでいただきたいです」と真知子さん。だから、色々な催し物も企画しているのだと言います。
 けれど、それよりも何よりも第一の目的は、そこに住んでいる人自身に楽しんでもらいたいのだそうです。
「自分たちが楽しむというのが、牧之通りのキーワード」とのこと。
実際に住んでいる自分たちがこの町を大好きで、この町を良くしていき、楽しくいい町だねとみなで言い合えることが、町つくりでもっとも大切なことだとお二人は考えているのです。自分たちの町だから、第一に自分たちが楽しんで、住みやすく誇りの持てる町に自らの手で変えていく。その先に来てくれた人も楽しんでくれたらいいと考えているんですね。
 私はこのお話をきいたとき、手放しで素晴らしいと感じたのですが、中嶋組合長曰く、まだまだ牧之通りを中心とした町つくりも完成形ではないのだそうです。
「今は牧之通りの『線』でしかないので、今後はもっと深さと広がりを持たせ、『面』を広げていきたい」
 これはもう、二年先、五年先、十年先、数十年先とこの地を訪ね、これから先も進化していくであろう街並みを、見届けなければならないと思いましたよ。
 ところで、牧之通りを造る前と後では、町つくりに取り組んだ住民たちの間に、なにか変化があったのでしょうか。
真知子さんは、「ありました」と満面の笑顔でうなずきます。まず第一に、みなが仲良くなったのだそうです。以前はただ挨拶をする程度にすぎなかった人たちとも、今は世間話をしたり、御年寄だけのお住まいには声掛けを行ったりするようになったそうです。
「絆が深まったよ。それが一番かなあ」と隣に座っていた中嶋組合長も嬉しそうです。
 最後にやはり今度の旅で出会った人みなに訊ねていることを、お二人にも訊いてみました。
「お二人にとって、雪とは、雪国とはどういうものですか」と。
 中嶋組合長は、雪は嫌いだが、この地では避けられないものだ。避けられないものならば、逆転の発想でそれを逆手に取って活かし、地域づくりをしていきたい。雪を活用することによって、より良い町になるだろうとのこと。
 真知子さんは逆に雪は大好きだそうです。なぜなら、雪があるからこそおいしいお酒が飲め、おいしいお米がとれ、素敵な反物ができるからだそうです。大変なこともあるが雪の恵みのおかげでこの町は素敵になっていると実感されていました。
 やはり雪国の人たちにとって、雪は多くのものを生み出し、もたらすものなのですね。

●「牧之通り 射干の会」
 牧之通りで実際にイベントを発案し、実行しているのは、真知子さんと地域の女性たちが一緒に作った「牧之通り 射干の会」です。会長は真知子さんが務めています。
町の高齢化が進み、人口が減ってきて一時は活気を失いかけていた地域に、牧之通りを造り、お雛様や五月人形の展示を行うなどのイベントを催すことで、活気が戻ってきました。今後は、いっそう訪れた人に喜ばれることは何かを模索し、発信していきたいと真知子さんは目を輝かせて語ります。
ところで、「牧之通り 射干の会」の名前はどうやって決まったのか、真知子さんが教えてくれました。これはあまり他に名前が使われていない山野草の中から、決めたのだそうです。射干は、春一番に咲くアヤメ科の花で、見た目の可憐さとは違い、根が張ってどんどん増える逞しさを持ち合わせた草花で、その元気の良さや不屈さが気に入ったのだとか。花言葉は「反抗」と「友人が多い」。体制に強く反抗し、多くの友と力を合わせ、毅然として強く頑張っていく姿が連想される花言葉です。雪国精神に通じるものがあると思いました。真知子さんも、「私たちにぴったり」と射干の花に愛着を覚えたそうです。
雪国の人々に似合うとても良い名前だと私も思います。

■しおざわ雪譜まつり
しおざわ雪譜まつりは、鈴木牧之を偲び、牧之や織物産業やしおざわの文化・伝統を顕彰する目的で、牧之の生まれ故郷塩沢で行われているお祭りです。
二月第三週の土曜日という雪深い時期に行われるため、牧之が『北越雪譜』で雪国以外の人たちに伝えたかった雪の世界の片鱗に、よその地から祭りに参加した人たちは僅かながら触れることができます。
塩沢中央公園、しおざわ広場を中心に牧之通りにかけて、あらゆる趣向のたくさんの催し物が開催され、塩沢織物などの目を楽しませてくれる展示が行われます。
しおざわ広場周辺には、お祭りの楽しみの一つである屋台が賑わい、かまくらも直に体験することができます。私は秋山郷で生まれて初めてかまくらに入りましたが、固められた雪の上で氷の結晶がキラキラと光の粒を放ち、うっとりするほど美しく、中はなんともいえない優しい暖かさに包まれていました。まだ、かまくらに一度も入ったことのない人は、あの独特のほっこり感をぜひ体験してみてください。
しおざわ雪譜まつりの目玉の一つ、お祭りの日から四月まで続く、六十か所におよぶ雅なお雛様の展示は、ため息ものです。江戸の昔から、日本人はお雛様を並べて見物することが大好きだったようで、例えば大奥でも上巳の節句の日には御台所や御側室、あるいは御年寄たちが、それぞれ自慢のお雛様や、その時期に咲くはずのない温室で育てた四季折々の花々を飾り、典雅さを競ったそうです。その日ばかりは大奥の外の者も招かれたほどの盛況ぶりだったとか。
しおざわのお雛様を眺めながら、そういう江戸時代に繰り広げられた催しにも思いを馳せ、夢のような時間を過ごされてみてはいかがでしょうか。実際に江戸時代のお雛様も展示されているだけでなく、現代の新しいお雛様まで鑑賞することができます。さらに伝統工芸の塩沢上布でつくられた衣装を身にまとったお雛様も見ることができますよ。また、飾ってあるお店や御宅の人たちと触れ合うことで、塩沢の人情にも心を温められるに違いありません。
牧之の『北越雪譜』に、「雪中の戯場(しばい)」について紹介されている箇所があります。
「地芝居を興行することあり。役者は皆其処の素人あるひは近村近駅よりも来るなり。師匠は田舎芝居の役者を傭(やと)ふ。始(はじめ)に寺などへ郡居(よりあひ)て狂言をさだめてのち、それぞれの役を定む」
 お芝居を近隣の人たちで寄り集まって楽しんだことが書かれているのですが、このしおざわ雪譜まつりでも、同じように土地の人たちが役者と化して歌舞伎を披露する催しが行われます。牧之の時代は、舞台もみなの手作りで、「芝居小屋場の地所の雪を平らに踏みかため、舞台花道楽屋桟敷の類すべて皆雪をあつめてその形につかぬ」とあるように、なんと雪を踏み固めて造っていたようなのです。かちかちに踏み固めた雪の上でのお芝居、足を滑らせて転ぶ役者さんもいたのではないかと危ぶまれます。
 さすがに現代の今は、雪の舞台は造られていないようで、塩沢勤労者体育センターの舞台上で行われていました。みなさん、牧之時代と同様、町の人たちが出演しているのですから役者としては素人さんなのですが、とても生き生きと演じられていて、内容も面白く、まったく目が離せません。観客の皆さんも、親しい人の出番が来ると嬉しさも楽しさもひとしおのようで、「いよう〇〇(知人の名前)」と、会場のあちらこちらから掛け声が上がっていました。
 牧之は役どころを決める寄合の様子を、「議論粉々として一度に果たしたることなし」と、意見が活発に交わされ、なかなか本決まりしない状態が目に浮かぶように描写していました。果たして、現在の塩沢の皆様の様子はどんな感じなのでしょうか。『北越雪譜』を片手にちょっとだけ覗かせていただきたかったです。
 しおざわ雪譜まつりのハイライトは、なんといっても塩沢中央公園で執り行われる山伏の行列や儀式の再現と、圧巻の百八灯大護摩ではないでしょうか。
夕方、辺りが暗くなると、百八どころか会場に設置された五百本もの蝋燭(数は年によって増減します)に火が灯されます。この和蝋燭は人々から寄進されたものなので、それぞれ寄進者の名が記されていました。それにしても、和蝋燭は私たちの馴染みのある洋蝋燭より炎は大きく高く伸びあがり、くねくねとその身を躍らせます。しおざわ雪譜まつりでも、しきりと降り落ちる雪を、風に煽られなぶられた炎が怪しくあぶり出し、たちまち一帯は幻想的な世界へと私たちを誘いました。
 この炎の群に囲まれて、山伏たちによる大護摩が執り行われるのです。途中、破魔矢が放たれ、護摩壇に点けられた巨大な炎が天を焦がします。めらめらと燃え盛る炎で己の煩悩を焼いてもらうと、なんともいえぬ厳かな気持ちにさせられます。すべてが終わり帰途についても、煤で黒くなった鼻の穴が、余韻を引きます。新潟から遠いところにお住いの方も、一生に一度は参加してみて欲しい、おすすめのお祭りです。

■ 鈴木牧之記念館を訪ねて
「『雪国』というのは、元々はこの地の人たちは使っていない言葉だったんですよ。これは『外』の人たちが言い出した言葉です」
 館内の案内をしてくれた貝瀬香さんにこう説明されて、軽く衝撃を受けました。なるほど、確かにそうかもしれません。そこに住む人たちにとって雪は当たり前のもので、生まれた時から冬になれば屋根より高く降り積もるものだったはずです。
今のように日本中だけでなく世界中の出来事が、インターネットを通じて瞬時に知ることができるならいざしらず、牧之の生きた江戸時代は、格別に旅をしない限り、自分の周辺のできごとが世の中のすべてであったことでしょう。自身の「日常」に大きな疑問は抱かなかったろうし、そうではない地域があることなど考えもしない時代だったのです。だから、他所と区別して自身の住む地域のことを「雪国」などとは呼ばなかったのも納得です。
『北越雪譜』は雪国を紹介する本ですから、すでに「雪国」と言う言葉は文中に使われていますが、面白いことに雪の少ない地域を江戸も含めて「暖国」と呼んでいるのです。江戸しか知らぬ人からしてみれば、思いもよらぬ言葉だったに違いありません。
『北越雪譜』は江戸の住人の視点で見ると、雪国の暮らしや文化が紹介されている本であると共に、細かく描かれた「雪国」と「暖国」の差異から、自分たちの暮らしや文化をも浮き彫りにしてくれる本だったに違いありません。
「雪国では当たり前のことが、よその国では当たり前ではない」という牧之が江戸で受けた衝撃は、江戸の生活が当たり前と思っていた江戸の人々にとって、「それが当たり前ではない国がある」という衝撃を生み出しました。牧之の描く「視点の妙」は、さぞ新鮮に映ったことでしょう。人々は今も昔も本を手にするとき、この「だれも描いたことのない世界」に心奪われます。『北越雪譜』はたちまちベストセラーとなりました。
 鈴木牧之記念館では、江戸時代の雪国の暮らしを知ることができるだけでなく、牧之がいかに『北越雪譜』を世に出すまでに苦労したのか、学ぶことができます。「一昼夜に積もるところ六七尺より一丈に至る(『北越雪譜』)」雪国に住む人ならではの、こうだと決めたら諦めない、忍耐強い越後気質が成し得たことを、訪れた人々は目を瞠る思いで辿ることになるのです。
 ところで『北越雪譜』は出版物として仕上がるまでに四十年ほどの歳月がかかるわけですが、一筋縄にことが進まなかった理由の一つに、原稿を預けた曲亭馬琴の、これまた一筋縄ではいかぬ性格が関係しています。『南総里見八犬伝』など、作品は文句なく素晴らしいのですが、人柄は作品ほど優れてはいなかったのです。馬琴を著す言葉によく使われる単語は「放逸」とか「傲岸」とか「尊大」とかいうものです。
 馬琴は牧之の原稿を預かったまま、自身の執筆にかかりきりになり、十二年間も動いてはくれませんでした。これは今の出版界でもままある現象で、立場の弱い作家の原稿を預かったまま、まったく出版もせず原稿を返しもせず、生殺し飼い殺しにする編集者はいるものです。こういうところは今も江戸時代も変わらないわけですが、結局馬琴は出版してくれないだけでなく、原稿自体を牧之に返してはくれませんでした。
仕方がないので、牧之は原稿を書き直したのです。魂を込めて綴った大作を、再び書き直す気力というのは、並の作家にはわかないものです。私などはほんの原稿用紙十枚分でさえ、パソコンの操作ミスなどで失ってしまったときは、頭が白髪になりそうなほどショックを受けて、しばらくは何も手につかなくなります。牧之という人物の偉大さと底力が、この一事からもうかがえます。
 鈴木牧之記念館は、しおざわ雪譜まつりの時は、無料開放されるとのこと。『北越雪譜』の貴重な初版本なども展示され、また、海外でも出版された軌跡を見ることができます。海の向こうでも非常に愛読者を得たということです。ぜひとも足を運んで、時を超え、国を越えた「世界の牧之」を偲んでいただけたらと思います。


秋山香乃(あきやま かの)

福岡県北九州市生まれ。活水女子短期大学で司馬遼太郎を研究。卒業後、歴史サークルを主宰し、会誌などを発行。現在は歴史小説を中心に文筆活動を行っている。
長岡藩士河井継之助をテーマとした『龍が哭く』が第6回野村胡堂文学賞(一般社団法人 日本作家クラブ主催)を受賞。