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第34回 国民文化祭・にいがた2019、第19回 全国障害者芸術・文化祭にいがた大会

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PRサポーターズ&インタビュー・コラム

越後の文化発祥の地
~伝統を受け継ぎ、壮大な街づくりを目指した彌彦神社~

2019年6月18日

PRサポーター 越後一宮 彌彦神社 宮司 渡部吉信さん

新潟県民に親しまれ、全国からもたくさんの方々が参拝に訪れる彌彦神社の知られざるエピソードを、23代目宮司渡部吉信さんにお話いただきました。これを読んで訪れれば、新たな弥彦の魅力を発見できそうです。

雨の彌彦神社
万葉集の歌もこのような雨の日に詠まれたのかも。

 弥彦についた頃は晴れていましたが、参道を歩いていたら急に雨が降ってきました。雨の彌彦神社も風情がありますね。
今日も本格的な写真を撮影されている方がいらっしゃいました。絵を描かれる方もたくさんいらっしゃいますよね。

渡部 万葉集にも弥彦の歌が二首入っています。弥彦の御山を詠った歌で、「いやひこ おのれ神さび 青雲の 棚引く日すら こさめそぼふる」と、晴れている日でも、弥彦の御山は雨が降っていると詠んでいます。
彌彦神社は、奥行き深い参道と弥彦山を背景に、とてもいい風景だと思います。一の鳥居を入って直角に曲がって、二の鳥居からの風景が、森が覆いかぶさるようです。

 万葉集の時代にすでに、都の方々に彌彦神社は知られていたのですね。

一の鳥居

渡部 彌彦神社は第十代崇神天皇の時代に創建されたと伝えられていますので、2千年以上の歴史があります。弥彦村でも前方後円墳があります。

 古くから人々が暮らしていた地であるということですね。
現在の神社の形になったのは、いつ頃ですか。

渡部 かつては現在の宝物殿のあたりに御社殿があったのですが、明治45年に門前町からの火災で焼失してしまい、土台だけが残っています。神様が御渡りになる玉の橋は焼け残り、現在一の鳥居を入って左側に移築しています。
現在の彌彦神社の御社殿は大正5年に再建されたものです。風の通りを避けるために、こちらに御遷座しました。ですから、一の鳥居を入ってから、参道が直角に曲がっているのです。
東京帝国大学教授伊東忠太先生がデザイン、設計をしました。伊藤先生たちが明治神宮の設計に取り掛かろうとしていた直前ですから、その方たちが彌彦神社の再建に携わったと聞いています。
大正5年の再建ですけれども、古くからの伝統を受け継いで建てられています。昔から彌彦神社の御造営には佐渡の国から材料を運ぶと伝えられていました。越後の国ですけれども、弥彦山は佐渡とも近いので、その
伝統を受け継いで1本だけですけれども、宮木(神社を建てるための用材)を佐渡から運びました。
弥彦競輪場の敷地も、彌彦神社の境内地です。元々は日本で初めて公式の400メートルトラックを備えた陸上競技場でした。彌彦神社の再建時に当時の宮司が、世界にはオリンピックというものがあり、日本の青少年にも目指してほしいと境内整備の一つとして造ったのです。

明治45年の大火を逃れた「玉の橋」
新緑と赤い橋のコントラストが美しい。

 大正時代に弥彦からオリンピックを目指すとは、壮大ですね。

渡部 当時の宮司は御社を焼いてしまったという責任を痛感して、とても一生懸命再建に尽くしたのです。大日本体育協会を設立した嘉納治五郎さんのお力も借りて、当時は一流の選手も指導に来ていたようです。
陸上競技場は、戦後、県の指導で競輪場に代わりました。敷地の一角には、かつて彌彦神社の陸上競技場だったことを示す碑が残っています。
御社殿の再建には、県内各地から青年団や集落毎に大勢の人々が作業のお手伝いに来てくださいました。最初、工事関係者は物見遊山で来るのではないかと心配したようですが、みなさん自ら希望して来てくださり、一生懸命、胴突き(地盤固め)などの作業を手伝ってくれたそうです。集落毎の記念写真が今も残っています。
宮司も一生懸命、再建資金を集めに北海道まで行き、新潟から開拓に行き成功した方々などにお願いして回ったそうです。参道にある灯篭を見ると、ハワイからも寄付をいただいたことがわかります。
県内はもとより、全国の新潟県人など、いろいろな方々に携わっていただき、再建できたのです。
再建にあわせて、弥彦線も開通しました。普通は、東京に向かうのが上りですが、弥彦線では弥彦駅に向かうのが上りです。

 同じものを再建するということではなく、夢ある街づくり事業ですね。

渡部 そういう時代だったのでしょうね。自分たちで建てた県民の御社という気持ちでみなさんいらっしゃると思います。

宮司 渡部吉信さん

 渡部さんはどのようなことから彌彦神社でお勤めをされるようになったのですか。

渡部 旧三川村の小さな鎮守様の神主の息子です。最初は跡を継ぐつもりはなく、大学で歴史を勉強していました。その時の指導教官が神主の資格を取れる大学でも指導していたので、相談してその大学を受験し、1年間勉強しました。
弥彦には神様の子孫といわれる社家が25軒あり、かつては社家の者が神主になっていました。明治になってから世襲が廃止になりました。
ですから、神社も求人があり、最初は大学の紹介で加賀の一宮、全国の白山神社の本宮の白山比咩神社に7年ほどいました。その後、彌彦神社に転任しました。
巫女さんも、ハローワークを通じて求人していますよ。
彌彦神社には約50人の職員がいます。神主や巫女だけでなく、境内を管理する職員や、新潟県の天然記念物である「蜀鶏」をはじめ貴重な在来種の鶏の保護育成もしていますし、鹿苑もありますので、そういった動物を飼育する職員もいます。

 いろいろな職員がいらっしゃるのですね。

渡部 皆、入ってからいろいろなことを覚えます。用語もそうですし、彌彦神社は古くからの歴史があり特殊な神事やお祭りがたくさん残っていますので、いろいろなことを覚えなければなりません。年間100以上のお祭りがあり、1日に何回かお祭りのある日もあります。

 いつもどのようなことを心がけていらっしゃるのですか。

弥彦のお菓子「玉兎」
畑を荒らす悪さをして村人を困らせた兎が、神様のお叱りを受けて畏まっている姿だという。

渡部 彌彦神社は越後の文化発祥の地と言われるように、国の重要無形民俗文化財に指定された大々神楽、雅楽、弓道の他、竈で火をおこして餅をついたり、炭をおこしたりと、様々な日本文化が神事として昔のまま伝えられ残っているのです。
神主は見習い期間が3年あります。巫女も覚えるのに3年くらいかかります。いろいろな伝統を覚えて、それを後輩に伝えるという大事な役目もあります。
伝統を受け継いで、絶やさないようにすることが、私たちの努めだと思っています。

 今日は、いろいろなお話をお聞かせいただきありがとうございました。
お話をお聞きすると、弥彦を見る目も変わり、新たな魅力も感じます。弥彦に来たことのある方も、まだ来たことのない方も、ぜひ、訪れていただきたいですね。 


(令和元年5月31日インタビュー) 
※役職等はインタビュー時現在です。

■関連リンク
越後一宮 彌彦神社

印刷用インタビュー:越後の文化発祥の地~伝統を受け継ぎ、壮大な街づくりを目指した彌彦神社~(PDF形式1,239KB)
PDF版デザイン協力:新潟県タオ国際交流員