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第34回 国民文化祭・にいがた2019、第19回 全国障害者芸術・文化祭にいがた大会

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PRサポーターズ&インタビュー・コラム

新潟を632灯の電球が照らした、新潟に天然ガスのバスが走った
~中野家の歴史~

2019年3月20日

PRサポーター 株式会社シルバーホテル取締役相談役 中野進さん

万代シティやレインボータワー、古町芸妓養成と派遣の柳都振興株式会社など様々な事業を手がけた新潟交通株式会社元代表取締役社長の中野進さん。実は中野家は代々様々な事業を手がけていたそうです。なんと、新潟で初めての発電所も中野進さんの曽祖父が創設したのだとか。今回は、中野家の歴史のお話です。

中野進相談役

 中野さんのご先祖は元々何をされていたのですか?

中野 代々、西蒲原郡中野小屋村大字槇尾というところの庄屋でした。本家の中野家は今が21代目です。私の祖父の中野四郎太は四男なので、中野家の分家になります。
おそらく江戸時代が終わり、明治維新になり、新潟の港が外国へ開かれて、一斉に、越後の庄屋や地主などの旦那衆は新潟に出てきたのです。
その頃は、北前船で北海道からニシンや昆布などの海産物が新潟へ集まり、新潟でまたお米を積むので新潟にお米が集まりました。北前船は、西回りで瀬戸内へ入り関西でお米や海産物を降ろし、帰りは京都などの呉服や大坂の雑貨などを積んで瀬戸内を戻り、さらに九州の伊万里焼きの大皿小皿を積んで新潟に帰ってきました。だから新潟には伊万里焼のすばらしいものがいっぱいあります。
当時は、お米を積んで船荷を重くして船を安定させていたので、帰りの積荷が呉服や雑貨類だけでは軽すぎるのです。それで、重い九州の焼き物を積んで帰ってきたのです。そういう時代でした。
ですから、蒲原平野の旦那衆は米問屋や精米、廻漕してきた人達を相手にした両替商などをするようになりました。

中野平彌さんの名刺
(右側の名刺には「H.Nakano」と記載がある)

 めずらしい名刺をお持ちですね。

中野 中野平彌は私の曽祖父です。明治時代の名刺ですが、名前が英語で書かれています。おもしろいですね。この頃こんな事業をしていたということがわかります。最初は精米だったようです。精米以外に、鉄鋼、製材、製紙、電気もやっていました。

(名刺の裏面)

白山浦火力発電所(新潟県内最初の火力発電)
提供:東北電力

 新潟で一番最初の発電所が白山浦にあり、632灯の電球がついたと聞いたことがあるのですが、中野家も創設にかかわったのですか?

中野 そうです。平彌も新潟電灯という会社の創設者のひとりです。当時は信濃川が広かったので、葦の生えた中州があり、発電所はその一角にありました。そこで石炭を焚いてタービンを回して、電気を起こしたのです。電気が日本に入って20年後、日清戦争のすぐ後の明治31年に、新潟で発電所を主宰していますから、早いですね。当時は電力ではなく、電灯ですから灯りだけです。
戦前いくつかあった電力会社は、戦時色が強くなると統合され9配電体制、戦後には9電力会社となり、新潟電灯は東北電力となりました。

 旅客輸送関係の事業を始めたのはいつですか?

かつての新潟交通の天然ガスのバス
提供:新潟交通

中野 明治の頃、平彌が安進丸という川船で新潟-長岡藩の旅客輸送をやっていました。当時は新潟-長岡は遠く、人力車ではとても行ける距離ではなかったので、蒲原平野の行き来はすべて船でした。船は、外輪船で焼玉エンジンでした。
大河津分水ができて信濃川の水位が上がり大きな船が通りにくくなってきたり、蒸気機関車、鉄道が敷かれるようになり、時代の進歩により、安進丸という船での旅客輸送は廃業になりました。
昭和になって、バス会社として四郎太が新潟合同自動車をつくりました。人が動くにはバスしかありませんでしたから、市内だけでなく、新発田や水原、巻などの郊外からも新潟市へ向かって乗り合いバスが走っていました。その事業を一手にやったのです。
戦時中は石油が輸入で入ってこないので、日本中がガソリン不足で、大きなボイラーを背中に積んで石炭や木炭を焚いてバスを走らせていました。でも、新潟では終戦の少し前に天然ガスが開発されたので、新潟交通だけは天然ガスを圧縮したボンベをお腹に積んで走っていましたから、非常にスムーズに走ることができました。天然ガスは、今でも掘れば出ますよ。
鉄道は新潟電鉄(新潟電鉄株式会社)で新潟-燕間を運行されていました。
「人を運ぶ」、今で言うモビリティについては、非常に関心があったのではないかと思います。平彌が基礎的な事業をやり、四郎太がその事業を大きくして近代化、多角化したのです。
四郎太他にもいろいろなことをやっていて、例えば一時新潟臨港埠頭の社長もやりましたし、紡績もやっていました。山の下の新潟人絹では、ドイツの技術を取り入れ、ステープルファイバーという木材を原料として絹のような人造繊維を作っていました。

 やっていない事業はないくらいですね。

中野 時代の要請もあったのでしょうね。でも、金融だけはやりませんでした。平彌からの家訓で、「事業家は金融業をやらないほうがいい」というものがあります。「やりたい事業がどんどん出てくると、つい、よくチェックをしないで自分の銀行で融資をしてしまうから、失敗してしまう。だから、他人の銀行家に自分のやりたい事業をチェックしてもらえ。それが安心だ。」と。保険がかかるようなものですね。そして、「逆もやらないほうがいい。銀行家が事業をやらないほうがいい。」と。自分で銀行を持つと、つい自分のやりたい事業に融資してしまいます。そういう失敗例もありますね。

 進駐軍に接収されたという当時のご自宅ではどのような生活をされていたのですか?

中野 戦前からクライスラーのマイカーがありました。その頃、マイカーを持っていたのは、県知事、国鉄の新潟管理局長など数えるほどでした。運転手がいて、マイカーで通勤していたのです。私は昭和6年生まれですが、小さい頃、鷹ノ巣温泉や瀬波、弥彦などにドライブに行った覚えがあります。
自宅は大正15年に建てられたのですが、水洗トイレがありました。当時の冷蔵庫は氷で冷やしていましたが、大きな電気冷蔵庫がありました。日本製のものはなく、アメリカのGE(General Electric)の大きなものです。アイスクリームも家で作りましたよ。
ピアノもありましたし、モダンでしたね。

 息子さんは、どんなことをされているのですか?

中野 広告代理店電通で働いた後、アメリカのロサンゼルスでレストランを展開し、今はアメリカで習ったヨガを活かして、日本でヨガインストラクター養成スクールを展開しています。次に何やるかわからん面白い男ですよ。

 まったく違うジャンルの事業をされているとは驚きました。中野家の皆さんは代々新しい事業をされるのですね。
でも、新潟に戻ってきてくれてうれしいですね。

中野 そうね!


中野進さん/柳都振興株式会社取締役会長、新潟交通株式会社元代表取締役社長
(平成31年2月26日インタビュー)
※役職等はインタビュー時現在です。

 

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