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第34回 国民文化祭・にいがた2019、第19回 全国障害者芸術・文化祭にいがた大会

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PRサポーターズ&インタビュー・コラム

一生の仕事~常にデザインを考えながら、生きてゆきたい~

2019年1月11日

PRサポーター 新潟米菓・さくら堂(さくら製菓株式会社) 代表取締役社長 寺尾綾さん

寺尾社長

小さい頃から好きだった、絵やデザイン。しかし大学は経済学部でした。そして好きこそものの上手と言いますが、現在、米菓の商品デザインのお仕事もされています。寺尾社長にデザインに携わるようになった道のりを語っていただきました。

 小さい頃から、絵がお好きだったのですか?

寺尾 大好きでした。小さい時は、体が丈夫ではなくて、1日中ぬり絵をしたり、絵を描いていました。
小学校低学年の頃からは、新潟古町の書店、萬松堂の上で行われていた、画家 関屋俊彦さんの絵画教室に通っていました。
子ども向けの絵画教室は、模造の果物や花瓶の花、窓の外の風景など自由に絵を描かせてくれました。自画像や生徒のモデル、先生が用意した虫籠の虫などを描いたこともありましたね。想像の絵や好きなものを大きな画用紙に描かせてくれました。木炭、クレヨン、絵の具の他、粘土なども用意してありました。
関屋先生は、下手上手という評価を絶対にしませんでした。画用紙の裏に、先生がいっぱい丸をくれるのが楽しみでした。
評価されずに自由に絵を描けたのがとってもよかったです。

 絵をずっと習っていて、それで美術の道に進もうと思ったのですか?

寺尾 知らず知らずに見たものをよく観察して描くという力が付いていて、高校生まで絵の成績がよかったのです。高校生の時は、美術部に入って、美術大学を目指してデッサンも習っていました。
高校の美術の先生は芸大出身の彫刻家で、個性的でした。彫刻と言えばイタリアと言われていますが、文化祭でイタリアのカンツォーネを披露したり、楽しい先生でした。
進学の際、家業を継ぐ身であったので、美術の道は諦めました。もし、美術の道に進んでいたら、人生変わっていたと思います。

 最初は、ファッションのお仕事をされていたとお聞きしましたが?

寺尾 東京の大学に進学したのですが、在学中に、繊維問屋を営んでいた父が、レインボータワーのできた万代シティ商店街に8.5坪の店を用意してくれました。
おしゃれも大好きだったので、1973年11月23日に万代シティとともに、ブティックをオープンしました。
素人でしたが、アドバイスをもらいながら、東京から好きなメーカーの服を仕入れて売ろうと、頑張って仕事をしました。あの頃は、東京ファッションが売れて、土日で商品がなくなるほどでした。月曜日に東京に行って、持てるだけの服を仕入れてきたこともあります。
2年後に24坪の店に移転しました。そして、大手アパレルの有名ブランドも扱いました。
当時は、新潟市だけでなく、長岡市などからもお買い物に来ていただきました。
新潟にコンサートに来た東京の有名な歌手の方なども、万代シルバーホテルに宿泊されていて、よくお買い物をされました。東京の方も納得されるようなディスプレイをしていましたので、旅先でのちょっとした時間に私の店でお買い物をされたのです。

 結婚後は、ずっとお菓子のお仕事をされていたのですか?

寺尾 1981年に結婚して2年ほどは、夫婦で東京に住み、赤坂のさくら堂直営店で働いていました。赤坂のお店では、ホテルの結婚式の式菓子も扱っていました。当時の式菓子の一番人気はバウムクーヘンでしたが、甘いものがあまりお好きでないのでさくら堂のおせんべいにするわ、という方もいらっしゃいました。
当時の赤坂は、料亭やナイトクラブがあり、赤坂芸者もいて、華やかで、欧米からの方がたくさん来ていました。
赤坂の店では米菓の他にこけしも売っていたのですが、なぜかそれが外国人向けの旅行案内書に載り、「こけしドール」を売っている店として有名になりました。外国の方がはとバスで大挙しておいでになり、各地のこけしをお買い求めになりました。
その後、新潟に戻って、主婦をしながら子育てをした後に、平成19年に会社を夫から引き継ぎました。

新潟県産大豆の醤油を使った揚げおかき熟成醤油

 会社を継がれて、心がけていることは何ですか?

寺尾 何でもいいから口に入れるという時代は終わり、最近は特に原料が確実にどこのものかわかるもので、安全安心なものが求められていると思います。やはり品質のいいもの、おいしいもの、それに限ると思っています。安心安全、おいしい、それしかないですね。そういうものはなかなか難しく、一人では出来ませんので、いろいろな人の手を借りてやっています。
米菓業界では、うるち米を原料とするものが「おせんべい」、もち米を原料とするものは、「あられ」、「おかき」になります。さくら堂は9割があられとおかきで、新潟県産のもち米を使っています。
現在では多くのメーカーがもち米を粉にして、蒸しておかきの生地を作っていますが、さくら堂では、今も昔と同じく、もち米を蒸して、トントン搗いて、冷却し、乾燥して切って、焼いて、と手間をかけて作っています。昔、鏡餅を乾燥させて、あられにしたのと同じです。今となっては、新潟県内でもそういった手間をかけているところは、何社もありません。

 そのように手間をかけて作った商品で、思い入れのあるものはなんですか?

カマンベールチーズおかき

寺尾 カマンベールチーズおかきですね。今は代表商品になっていますが、最初の10~15年はぜんぜん売れませんでした。
会社を継いだ時に、まず、包装のデザインを一新しました。当初は落ち着いたカラーを使っていたのですが、明るいカラーにし、華やかにしました。当初の販売先は全国の和菓子屋さんでしたが、若い方や男性にも買っていただけるように、ショッピングセンターやスーパーに切り替えました。同時に、東京の百貨店や表参道・新潟館ネスパスの催事でも売り込みました。
最初、関西のスーパーで売れ始め、そのうち全国的に売れるようになりました。
でも、ベーシックなものは依然として皆さんに好まれますね。昔からある品川巻、豆おかき、ザラメは廃れません。ここのところ、若い方もベーシックなものを好むようになりました。

 絵やデザインとは別の道を進まれましたが、いつの間にか、小さい頃からお好きだったデザインの仕事もするようになられたのですね。不思議ですね。

寺尾 それが、とても嬉しいですね。
若い頃たくさん油絵も描いたので、色彩学、どの色とどの色を混ぜるとどういう色ができるのかということも、どの色がどういう雰囲気を出すのかということも体に染み込んでいます。ですから、ちょっとしたパッケージを作る際に色見本から色を選ぶのも割と容易です。また、どのフォントを使うかで、商品のイメージがまったく変わるので、フォントを選ぶ時にも、知らず知らずに体に染み込んだことが役に立っています。
「商品づくり=デザイン」ですね。
それから、工場もデザインだと思っています。人をどのように配置するか、人の流れ。あれこそデザインですね。どこにドアを作れば効率がいいとか、物の置く場所を変えたほうがいいとか、そういったデザインをきっちりできたら素晴らしいと思います。
21世紀はデザインの世紀だと思います。
ライフワーク、自分の中の一生の仕事として、常にデザインを考えながら生きてゆきたいと思っています。
そのために出来る限り努力しています。いい催し物は観に行くようにしています。チャンスがあったら、一流のもの、いいものに触れる、それが大事だと思っています。今はそれが出来る時代ですから。

 小さい頃は体が丈夫ではなかったとのことですが、最近はタップダンスをされているのですか?

寺尾 夫が少林寺拳法を教えていたので、夫の影響で体を動かし、私も初段を取りました。道場で子どもたちを教えていたこともあります。ジムを持っているので、ウェイトトレーニングの指導者の資格を取ったこともあります。
ダンスは昔から好きでした。ディスコ時代は、毎晩踊り明かしていましたよ。
フラメンコをやってみたかったのですが、近くに先生がいませんでした。ご近所に鹿児島からいらしたタップダンスの先生がいたので、60歳で始めました。
タップダンスは、1年に1回ほどイベントに呼ばれて踊ったりもしています。
先日、タップダンスの会で、生まれ変わったら何になりたいかという話になりました。もし女性だったらダンサーに、もし男性だったら冒険家になりたいと言いました。
23歳の時、初めての海外旅行はアラスカ経由のパリでした。北極圏を通過する時に、太陽がダイヤモンドのように光って、真っ白な雪の中に小さな黒い点が移動しているのが見えたのです。たぶん犬ぞりだったと思います。それくらい空気が澄んで、きれいで、ずーっと窓から眺めていました。その時、こんなところを冒険したいなと思ったのです。

 今日は、小さい頃からお好きだったデザインのお仕事に携わられるまでの道のりを、楽しく聞かせていただきました。
生まれ変わったら、冒険家というのも意外でした!
これからも、おいしくて安全安心な新潟の米菓を作りつづけてください。ありがとうございました。


(平成30年11月28日インタビュー)
※役職等はインタビュー時現在です。

■関連リンク
新潟米菓 さくら堂
新潟市中央区の老舗書店 萬松堂

印刷用インタビュー:一生の仕事~常にデザインを考えながら、生きてゆきたい~(PDF形式1,015KB)
PDF版デザイン協力:新潟県タオ国際交流員