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PRサポーターズ&インタビュー・コラム

ダンテ没後700周年を前にして:山川丙三郎の故郷「上館」

2018年12月20日

PRサポーター 敬和学園大学長 山田耕太さん

山田耕太学長

蒲原平野の山裾から平野にかけて、旧下田村出身の『大漢和辞典』を出版した諸橋轍次、旧水原町出身の『トルストイ全集』を訳した原久一郎、旧安田町出身の『大日本地名辞典』を編纂した吉田東伍、旧加治川村出身のダンテの『神曲』『新生』(岩波文庫)を訳した山川丙三郎が出ている。だが、山川丙三郎は故郷ではすっかり忘れられている。

山川丙三郎の墓(仙台・北山クリスチャン墓地)

山川丙三郎は、1876年に蒲原郡加治村上館で生まれ、1889年に北越学館に入学した。だが、1892年に閉校したので、後に東北学院第3代目院長となる五十公野出身で3歳年上の出村悌三郎と歩いて仙台に向かい、東北学院に編入し苦学して卒業した。その後、カリフォルニア大学バークレー校特別科に入学し、イタリア語、古代英語、中世英語などを学び、米国の教員資格の高等教育資格試験に合格して1911年に帰国した。

東京・雑司ヶ谷で新井奥邃(おうすい)の門下生となり、赤貧の中でダンテ『神曲』の翻訳に没頭した。1915年には北蒲原郡本田村本田の医師渡辺護と善の長女なおと結婚した。1921年のダンテ没後600周年の前後に、山川丙三郎と中山昌樹との間で、ダンテ『神曲』を先んじて出版する動きがあった。山川が第一部の『地獄編』を原語のイタリア語から訳して出版したが、英訳からの重訳で三部作全編を先に出版したのは中山であった。

妻なおの実家渡辺医院の所在地(新発田市本田)

山川丙三郎の最後の弟子の一人で、シェリー研究家の石川重俊先生が敬和学園大学で12年前にご講演された折に、山川丙三郎の故郷の新発田市上館と妻なおの故郷の新発田市本田をご案内した。上館で山川の実家を探し求めていたら、佐藤哲三の『農婦』のモデルとなった寝たきりの90才を越える老女が、家の前の七葉中学校の裏手の空き地を指し示して下さった。40年前まで実家が立っていたそうだが、現在は三軒に分割され空き地となっている。ダンテ没後700周年を前にして山川の偉業を思い起こしたい。

山川丙三郎実家跡地(裏手に七葉中学校)


「ダンテの『神曲』のお勧めポイント」
ダンテはフィレンツェの政治的指導者になりましたが、陰謀により失脚し追放された経験の中から、壮大なビジョンを描きました。これが芸術家たちにインスピレーションを与えてきました。その代表がロダンです。「考える人」は「地獄の門」の上から地獄に落ちていく人間模様を見つめています。ダンテの『神曲』は、絶望の中から、愛と希望に生きることを教えています。
*ダンテの『神曲』からインスピレーションを受けた本物のロダンの「地獄の門」と「考える人」(拡大版)は、「アダム」「エバ」「カレーの市民」とともに、東京・上野の西洋美術館前庭(入場無料)で見ることができます。*

「山川氏の翻訳のお勧めポイント」
山川訳は日本で最初のイタリア語からの翻訳で、大賀壽吉というダンテ研究者で武田薬品(当時)顧問がパトロンとなって支援した、世界最先端の研究を踏まえた訳文です。森鴎外訳のゲーテ『ファウスト』に優るとも劣らない最も美しい日本語の『神曲』です。

「コメディを訳さなかった理由」
ダンテの“La Commedia”(喜劇)というオリジナル・タイトルに、ボッカチオが内容から‘Divina’(聖なる)を付け加えました。“La Divina Commedia”を『神曲』と訳したのは森鴎外です。山川は鴎外に基づいて『神曲』と訳したのです。森鴎外訳『即興詩人』により、明治期後半から大正期にかけて日本でダンテブームが起きていました。


山田耕太さん/敬和学園大学副学長などを経て、平成27年より学長。同大学人文学部教授。
日本私立大学連盟公財政政策委員、新発田商工会議所諮問委員、
FMしばた取締役、新発田市中間支援組織推進協議会会長。
新約聖書学、ヨーロッパ思想史ならびに共生の哲学などを研究。
※役職等は執筆時現在です。

■関連リンク
敬和学園大学
敬和学園大学 「人文社会科学研究所年報」 No.5
「新発田が生んだダンテ研究家 -山川丙三郎について-」山田 耕太敬和学園大学教授(敬和学園大学 「人文社会科学研究所年報」 No.5より PDF形式 4,174KB)

印刷用コラム:ダンテ没後700周年を前にして:山川丙三郎の故郷「上館」(PDF形式864KB)
PDF版デザイン協力:新潟県タオ国際交流員