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PRサポーターズ&インタビュー・コラム

「伝統」とは「革新」の連続~冒険心と好奇心が生み出す新潟のお菓子~

2018年11月30日

PRサポーター 株式会社丸屋本店 代表取締役会長 本間彊(つとむ)さん

「丸屋本店」の本間会長の冒険は、保育園の頃にバスで一人旅、中学生で一人東京へと、止まることを知らず。脱脂粉乳、コカ・コーラ、バウムクーヘン、ぽっぽ焼き、ハニーレモン、枝豆、ル・レクチェ…意外な味で繋がる新潟の老舗「丸屋本店」のお菓子作りと未来。

本間彊会長

 創業が明治11年と、新潟では歴史あるお菓子屋さんですよね。

本間 新潟は、北前船が行き交い、物と人の集散地として栄えました。その港町の文化が私たちの原点で、最初はお饅頭や羊羹など庶民のお菓子を作っていたと思います。新潟はお祝いなどの式菓子も発展しました。城下町のお菓子屋さんとは違うイメージですね。

 どういうきっかけでお菓子屋さんを創められたのですか?

本間 初代の長松は、村松藩で髪結いの仕事をしていました。ところが明治の断髪令で仕事がなくなり、お菓子屋さんへ修行に行き、今の古町本店と同じ場所、新潟の古町の小路の中に創業しました。昔の柾谷小路は狭かったのですが、大火が起こる度に道路が広くなり、柾谷小路に面するようになったのです。夫婦ともいつ寝ているのかわからないといわれるほど、仕事熱心だったと聞いています。

 小さい頃、お家がお菓子屋さんだということをどう思われていましたか?

本間 生業なので自分では特別と思いませんでしたが、友達から羨ましがられました。お菓子があるので、友達がたくさん遊びに来て、いつも賑やかでした。今でも友達に、いっぱいお菓子を食べさせてもらったと言われます。
当時は、職人も店員も家族も一緒に暮らし、同じものを食べて、一体感がありました。作るところも見ていたし、手伝いもさせられたので、お菓子屋とはどういうものかということを体でわかりました。それが私にとっては大きかったですね。

 どんなお子さんだったのですか?

本間 保育園の頃に家の前のバス停から一人でバスに乗って行ったり、中学生で一人東京へ遊びに行ったり、冒険心が強く、好奇心旺盛でしたね。今でもそうですが、どこへ行くのも平気です。好奇心旺盛なのは、お菓子作りにとって大事です。東京で下宿をしていた兄が夏休みに帰ってくると、交代で東京に行って、下宿を拠点に、電車に乗ってあちこち行きました。新潟にはない世界ですよね。食べ物、飲み物に非常に興味があって、いろいろな物を食べているうちに、おいしい、おいしくない、がだんだんわかってくるのです。
中学2年生の修学旅行の時に、当時、東京タワーにしか売っていなかったコカ・コーラを見て、みんなで「何だ、これは!?」と騒いでいました。色からして気持ち悪いと、誰も飲みたがらないのです。でも、私はどうしても飲んでみたいと思いました。飲んでみたら、衝撃的で、カッコいい「東京の味」がしました。カルチャーショックを受けて、すぐに酒屋さんに取り寄せてもらいました。新潟初ですね。
この前も、京都でデザートに出た果物がおいしくて、古町の八百重さんに聞いたら南米原産のチリモヤだということで、取り寄せてもらいました。仲間のところに持って行ったら、あっという間になくなりましたよ。
給食の脱脂粉乳もシチューも、食べたことのない未知のアメリカ文化で、当時はおいしいと思いました。食べるものがなかった時代、おいしいもの、未知の物に興味があり、敏感でした。

 ちょうど、新しいものが入ってくる時代ですね。

丸屋本店の和菓子

本間 東京の大学に行ってから、東京の友達と食べに行った中村屋のカレーも最高においしかった。今でも、新宿に食べに行きます。そういう原体験は忘れませんね。
大学を卒業してから、京都へ修行に行きました。それは、東京とはまた違う、新しい体験でした。それが、私のお菓子屋としてのスタートです。
小さいお店でしたので、何でもやりました。3年の修行中に教えてもらったことは、今日の土台です。仕事をこなすだけで精一杯、無我夢中でした。修行していた時に、ドイツのバウムクーヘンとは違う軟らかい生地の開発をしていたので、私も試作品の生地でバウムクーヘンを焼きました。そのやわらかいバウムクーヘンがとてもよく売れて、朝から晩まで焼いていました。1本焼くのに50分かかりました。バウムクーヘンを焼いている間はとても暑くて、毎日4、5回着替えをしなくてはならないほどでした。丸屋本店のバウムクーヘンは、京都で覚えた配合のまま今も作り続けています。
修行した店で作っていたのはほとんど洋菓子でしたが、知り合いの和菓子屋さんに遊びに行ったりして、京都という環境の中で和菓子も覚えました。丸屋本店は、昭和30年代から和菓子だけでなく洋菓子もやっていたので、新潟に帰ってきてから修行した経験を生かしてお菓子づくりを見直しました。

丸屋本店の「ハニーレモン」と「バウムクーヘン」

 開発したお菓子で、思い入れのあるものはどれですか?

本間 1971年に作った「ハニーレモン」です。レモン形の型を使って、京都で覚えてきた生地に蜂蜜と生レモンをたっぷり入れ、特別に作ってもらったレモンのチョコレートをかけて「ハニーレモン」を開発しました。それが売れると、他のお店もレモンケーキという名前で出しはじめて、3、4年後にブームになりました。息の長いお菓子で、4世代で食べていただいているのが、うれしいですね。
修行中にごまかしはきかない、お菓子は嘘をつかないということを教えられました。
正直に作れば、正直においしくなる。創意工夫が大事、しっかり考えて、自分がいいと思うものではなくて、お客さんから評価されるものを作りなさいということを教えられました。

 丸屋本店のお菓子が、長く皆さんに愛されているのは、どうしてだと考えていらっしゃいますか?

丸屋本店の「黒糖饅頭」

本間 「黒糖饅頭」は、懐かしい味がしませんか?黒糖とモチモチした食感。新潟の人には懐かしい味だけれど、なぜ懐かしいのかは気が付きません。あれは新潟の味、「ぽっぽ焼き」なのですよ。説明すると皆さん納得してくれます。子どもの頃、白山まつりで買う「ぽっぽ焼き」が大好きだったのです。小学生の頃、餡子を入れたらきっとおいしくなると思っていました。それを実践したのです。時々、東京のデパートの催事に持って行くと、新潟出身の人は懐かしいといいます。そういうものが、大事だと考えています。
古いだけでも、新しいだけでも商売はできません。古い技術や哲学の上に、新しい技術や哲学が必要と考えています。
老舗が続く秘訣は、伝統だけではなく、革新が必要だと考えています。伝統とは革新の連続です。

 新潟の食材を使ったお菓子もたくさん作っていらっしゃいますが、きっかけはあったのですか?

本間 若い頃は、東京や京都の方ばかりを向いていました。東京のデパートに出展した時に、新潟らしいお菓子がほとんどなく、それほど売れませんでした。新潟のお菓子はなんだろうと考えた時に、新潟の食材を使ったお菓子を作ろうと思いました。枝豆も新潟では普通に食べていますが、東京の人が来ると「なんておいしい枝豆なんだろう」と言われます。ご飯も当たり前のように食べていますが、おいしいと言われますね。水も気候がよく、作る人も真面目です。新潟の食材は最高だと気がついて、身近にある枝豆を使った餡を新潟の餅で包んだ「越後のえだまめ餅」を作り、とても喜ばれました。特に東京の方がお土産にお持ち帰りになります。それで自信を深めました。

丸屋本店

そして、全国ではまだ知られていないル・レクチェを使ってお菓子にしようと思いました。祖父の長太郎も私と同じく好奇心が強く、グルメで、新しいものを買ってきては、自分だけ違うものを食べていました。古町の八百重さんから、当時はロクチと言われていたル・レクチェもらってきて、子どもの頃の私も食べさせてもらっていたのです。 ル・レクチェは生では1ヶ月くらいしか食べられません。1年中食べられるようにしたいと思い、一番おいしいル・レクチェを探して、ゼリーにしました。ジューサーにかけてしまったら舌触りがなくなってしまいます。カットしたル・レクチェをそのままゼリーにしたので、味も香りも閉じ込められて、舌触りがいい。これが夏のメイン商品となった「新潟果樹園」というゼリーの出発です。こういうものが新潟らしいお菓子と考えています。
そして、お菓子を作るだけではなく、教えることも大事だと思っています。和菓子の教室を開催すると、おいしい本物のお菓子を作りたいと思っている人が増えていると感じます。私たちが使っている材料で、高度なものを作る方法を教えて行きたいですね。本当においしいものを作れるように。

 これからもおいしいお菓子を作り続けてください。今日は本当にありがとうございました。


本間彊さん/新潟市生まれ。株式会社丸屋本店前代表取締役社長。
(平成30年10月19日インタビュー)
※役職等はインタビュー時現在です。

■関連リンク
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印刷用コラム:「伝統」とは「革新」の連続~冒険心と好奇心が生み出す新潟のお菓子~(PDF形式981KB)
PDF版デザイン協力:新潟県タオ国際交流員