メニューをとばして、このページの本文へ


第34回 国民文化祭・にいがた2019、第19回 全国障害者芸術・文化祭にいがた大会

やさしいブラウザ

PRサポーターズ&インタビュー・コラム

「ふるさとは遠きにありて・・・」(県人会の思い出)

2018年9月26日

新潟県立歴史博物館 館長 斎藤良人

新潟県立歴史博物館

私は2018年4月に、長岡市の関原にある県立歴史博物館の館長になりました。前職は銀行員です。第四銀行に42年、関連の証券会社に1年勤め、金融経済に携わる仕事をして来ました。いわゆる「文化人」という言い方には該当せず、ずっと根っからの「経済人」でした。しかし、縁あって新潟県の歴史民俗全般に関わる博物館に
勤務することになり、文化とは人間の生活様式の全体を指すのでありましょうから、私なりの文化財産に触れてみたいと思います。

私は1952年、東蒲原郡の上川村(現阿賀町)に生まれ育ちました。歴博に勤務して以来お会いする関係者の方々が、上川村の名前をよく知っておられることに驚きました。経済人との付き合いでは、上川村と聞くと生半可な返答や口籠る方々が多かったのと比べると、段違いです。何故なら、1950年代後半から発掘が開始された、上川村の奥地に縄文時代草創期からの遺物が出土した小瀬ヶ沢・室谷洞窟遺跡があるからです。現在は長岡市立科学博物館に多くの展示品があります。
さて、そのような山村に築後150数年で、空き家になって10年程の実家がまだあります。昭和20年代後半から昭和39年の東京五輪、新潟国体までの10年間位は、新潟市域の経済、文化水準と比較すると、10数年以上の歴然とした差がありました。小学校6年生の修学旅行で新潟市に来て、その差を実感した記憶があります。旅館に手拭いで作った袋に米を入れて持参したことも覚えています。この時代の田舎の経済消費活動は、自給自足と言っていいかなと思う位で、新潟市から行商のおばさんが磐越西線の蒸気機関車に乗って、海産物や魚の干物などの食材を持って来て、村からは山菜、筍、栗、キノコなど季節の山の幸を町に持ち帰る商売をしておりました。やや大袈裟に言えば、貨幣があまり介在せずに物々交換とも思えるような生活がありました。72人いた小・中学校の同級生の15人位は、集団就職して行ったのです。県内の郡部山間部各地も、都市部でも高校卒業生を含めれば、似たような状況も見られたと思います。これらの方々は、その後、首都圏や関西圏の高度成長期の日本の経済を支え、ご立派に今日の地位を築いておられるのではないでしょうか。そのご様子は、時々見聞きする各地の県人会、市町村会の活動に表れております。銀行員時代も県外支店のお客様との会合に出席しますと、戦前戦後の集団就職などで都会に出て行った方々の苦労話をお聞きすると共に、強い郷土愛に触れることが出来ます。「ふるさとは遠きにありて思ふもの・・・・・」なのでありましょう。都会に出て来たばかりの頃は言葉や生活に馴染めず、同郷の人々と久し振りに会う懐かしさ、引退した今でも新潟という故郷を共有する会に集まる、全く自然な行動でしょう。「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」。ああ上野駅の時代です。

1975年、銀行員として埼玉県の大宮支店に入り、会津支店を経て、新潟市の本店に転勤したのが、入行後5年目でした。この本店の時代、1979(昭和54)年からの5年間の主な仕事は、銀行の窓口係や店内のお客様応対の指導をするため、大きなビデオカメラを担いでほぼ全支店を回ることでした。当時は新潟県内に約115店舗内外、県外に12店舗位の店舗網でした。県内の支店のある市町村はもとより、北は札幌、南は大阪までと、新潟市内などは40店舗近くあり、相当の地域を訪問したことになります。そこでの大切な要素は、その土地土地の方言です。独特な言い回しとイントネーションで会話をする。転勤商売でもその土地の言葉に早く馴れる能力が、営業力を高めることに繋がるのです。営業の基本は人間関係の醸成です。
その後1985年に、銀行がニューヨークに駐在員事務所を作ることになり、その開設準備のためにNYに赴任しました。日航の御巣鷹山事故、NYのプラザ合意の後、33才の時です。2番目の子供の出生後、家族もNYに合流しましたので、現地の幼稚園・小学校、日本人学校の父兄・先生などビジネス以外で異文化の人々との交流をする事も多くなりました。結果として、85年から99年までの間に3度のNY勤務で計6年間を過ごし、99年に最後の支店長としてNY支店を閉店し帰国しました。ジャパンアズNO.1の時代からアジア・日本の金融危機の時代まで、日本経済の栄枯盛衰を肌で感じる経験をしました。それから本店勤務、新発田支店長、高田支店長を経験した後、また本店に戻り2016年に退任した訳です。銀行の後、1年間関連の証券会社におりましたが、これは長岡本社勤務でした。若い時に2年間長岡支店勤務の経験があり、今また長岡勤務ですので、長岡とも深い縁があったのではないかと思っております。

私の財産はと言えば、一つにこの転勤歴があります。役員になって本店に落ち着くまでの30年間で、引っ越しを伴う転勤だけでも県内外12回にもなりました。敢えて特色を上げれば、会津、長岡、新発田、高田といった城下町が多かったのです。支店の勤務は何故か城下町が多いのです。私は勝手に「私の城下町」シリーズ(それなりの年齢の方なら小柳ルミ子といえば、・・・・・)と名付けています。県内それぞれ、上越後、中越後、下越後に榊原家、牧野家、溝口家が治めて来ており、立派な城下町を形成しておりました。城下町は歴史のどの局面においても、それぞれの藩の考え方が色濃く出ているのと、何より教育がしっかりしています。歴史を重んじ、それらを残そうと努力し、今でもその町に生まれ育ったことを誇りにし、その街を愛して生活している人々が多いと感じます。歴史に名を遺した偉人がたくさん出ておられます。明治に入ってからは国立銀行条例によって、各地に銀行が林立しそして合併の歴史があります。私は銀行のお客様としてのお付き合いや、商工会議所、商工会、各地域の団体などいろいろな方々との交流がたくさんありましたが、産業育成、成長、衰退、再生といった経済活動のいろいろな局面でもその町の特性が出ているものと感じることが多くあります。

折りしも、当博物館では平成30年7月14日から8月26日まで、「戊辰戦争150年」の企画展を開催いたしました。県内では長岡藩をはじめ各地域における、いわゆる奥羽越列藩同盟という敗者の視点から企画された展覧会です。福島県立博物館、仙台市博物館と連携した企画展でした。予想を上回る多数のご来館者がありました。また、平成30年9月15日からは、地元長岡開府400年の「徳川の栄華」展を開催し、徳川記念財団、日光東照宮、地元長岡の牧野家ゆかりの名品を展示しました。平成30年の夏、秋は江戸の華やかな文化と幕末から明治にかけての歴史的資料をふんだんにご覧いただけることになりました。

NY勤務時代の自宅前

転勤歴のもう一つの付加価値は、新潟県を外から見た経験です。学生時代は東京に4年間、社会人となってからは、大宮、会津と4年半、それから海外のNYに6年間の10年余りを過ごしました。県外に、国外に出れば、それぞれに自分のアイデンティティを意識せざるを得なくなります。しかし、逆にそのような知らない人が多い環境で、同県人にお会いすると、初対面でも旧知の友人に会ったように打ち解けるのです。例えばNYの県人会です。今年で結成30年を迎えますが、この会は私がNY駐在の時に発足しました。発起人兼事務局を引き受けたのです。正式に組織化する前に、当時の駐在員や現地に根付いて仕事をしている5、6名で、日本料理店で集まって始めたのが最初でした。80年代後半で、アメリカ経済は双子の赤字を抱えて低迷し、日本はバブル経済へと向かい絶好調でしたが、日本経済への風当たりが相当に強くなっていました。厳しいNYのビジネスの現場で活躍していた新潟県人が、たまに集まってそれこそ方言で語り合う。当時は今のようにITが発達していない時代、速いのは電話とFAX、日経新聞が届くのは2日遅れ、新潟日報は本店から月3回まとめて送ってもらう時代でしたが、新潟の情報は貴重でした。そのような時に、集まったのは新潟市出身の銀行マンと米国公認会計士(このお二人は高校時代に米国留学)、小千谷市出身の損保会社の駐在員、新発田市出身の金融団体の駐在員(東京銀行OB)と当行の所長、それに駆け出しの私ではなかったかと思います。それから口コミで段々と会員が増えていったのです。ここでの会話は仕事の話はせずに、あそこの蔵元の酒が飲みたいね、枝豆が食いたいね、スイカは、ねぎはと、夢にまで見た新潟の美味しいものの話に花が咲きました。野菜は味も形も日本のものとは随分と異なります。日本語を英語に訳しても、味と形は訳せないのです。当行の人間以外は日本に帰っても東京暮らしですから、NYで新潟の話は大変盛り上がりました。駐在員の皆さんは、普段のオフィスにいる時とは違った顔を見せました。同県人の好というやつです。東京でも似たところがありますが、それが国外となれば尚更です。

NY新潟県人会

最後の勤務は97年から99年までです。NY支店長として駐在していました。この時期は日本の金融経済環境も厳しく、アジア通貨危機も勃発し、当行は継続するには問題はなかったものの、日本の金融事情がそれを許さず、閉店して帰国しました。85年の開設の時とは全く違った風が吹いていました。その時の県人会の事務局を当地で不動産業を経営している大坪さんに引き受けていただき、感謝しても感謝しきれない思いです。大坪さんはその後NY新潟県人会を立派に発展させ、今日のNYにいる県人のオアシスを作っていただいております。深甚なる敬意を表します。この当時の一番の思い出は、何と言っても小和田恆国連大使(当時)です。まさにご多忙なスケジュールでありながら、県人会には必ずご夫妻でご出席下さり、奥様の弁によれば新潟県人会を大変楽しみにしておられたとのことでした。そこで、県人会の日に合わせて新潟の本店から新潟まつり用の浴衣、帯、編笠を送ってもらい、NYのセントラルパークサウスの会場で、大使と浴衣を羽織って、佐渡おけさを踊った記憶は大変貴重なものです。地酒と祭り浴衣と佐渡おけさと日頃お見せにならない大使閣下の笑顔を懐かしく思い出します。今も手元に当時の県人会名簿がありますが、県人会も大使が出席になると近隣の州からも出席者が増えて、大変楽しく賑やかな一時となったことは言うまでもありません。因みに大使の県人会へのご出席は、当行に大使の高田高校の時の同級生がいた縁であったと記憶しております。

「ふるさとは遠きにありて思ふもの」は、「そして悲しくうたふもの」ではなく、「楽しく語りあうもの」が県人会の大切な役割だと思うのです。故郷を思う気持ちは、故郷を離れた距離と時間によって増幅されるのです。


斎藤良人/上川村(現阿賀町)出身、前第四銀行取締役副頭取。
※施設名、肩書き等は執筆時時現在です。

■関連リンク
新潟県立歴史博物館

印刷用コラム:「ふるさとは遠きにありて・・・」(県人会の思い出) (PDF形式991KB)
PDF版デザイン協力:新潟県タオ国際交流員